【天官賜福】に見る 真の生き方
【 天官賜福 】
中国のwebファンタジー小説作品(墨香銅臭著)
神【謝燐】と鬼の王【花城】、そしてとりまく人々の深くて美しい、壮大な物語です。
ちなみにBL作品ではありますが、男でも女でも私的には構わないので、ここでは触れません・・
なんとなくアニメを見つけて、ただそのストーリーをながら見で楽しんでいたのですが
第1期、第2期と終えるところのエンディングの前、
『 帰於塵』という心に刺さる曲と共に流れるナレーションで突如号泣しました。
これ、単純なストーリーなんかじゃない!!
第1期の半月国の件も、第2期の鎏金宴の件も、どうすべきだったのかはっきりとした答えが出ていなくて
『万人を救いたい』という謝燐が最終的にどう落とし込んでくるのか、が気になりました。
まったくもって(当然ながら)万人は救えていないのです。
どう『万人を救いたい』夢に決着をつけるのか。とても興味がありました。
そしてもう一つ。
幼い頃謝燐に助けられた花城が、『永遠に貴方を忘れない』と何故か鬼の王となり、
弱点である骨灰をしょっぱな神である謝燐に託します。
骨灰を飛ばされれば、鬼は消滅してしまいます。
どうしても神と鬼という関係上、神が鬼を消さざるをえなくなる最後を想像してしまい、痛すぎて悲しすぎて。
まして800年恋焦がれた末路だなんて・・無理っ
という事で、小説で読み進めるとあまりの深すぎる物語に感嘆し、ドはまりしたのです。何度も何度も読み返したくなる、というのは私にとって初めての事でした。
アニメも小説の細かい表現まで忠実に再現されていて、人々のそれぞれの深い想いが溢れていました。
神作品です。
謝燐、花城、そして取り巻く人々の生きてきた軌跡は本当にキツくて
ですが時に笑いあり、花城の狂気的な愛や謝燐の手料理に救われるので、
耐えられます。著者様本当に天才です。
謝燐のゆるぎない生き方
太子殿下謝燐は『万人を救う』という志しを持ち、そしてそれは必ず出来ると思っていました。
※ちなみに半分こでは共に生きられません。
この問いに
慕情 『その二人の素性を隅々まで知らなければ決断できない』
風信 『そいつらが自分たちで決めてくれ』
謝燐 『もう一杯与える』
謝燐は二人とも助ける、という第三の道(万人を救う道)を選ぶと答えます。
そんな謝燐に国師は言います。
『非常に理想的ですが、成し遂げるのは基本的に不可能です』
郎千秋はそれでも満足しないかもしれない、だったら『最初から関わるべきじゃなかったのかも・・』と言っています。
謝燐は神になりましたが、第三の道である『もう一杯与える』が出来ず
自国は滅亡します。
挫折を味わい、絶望し、恨みと憎しみから復讐を謀るまでに落ちていきます。
しかし踏みとどまった謝燐は、二度目の飛翔を拒絶し、三度目の飛翔に至るまで、
人間界で800年懺悔し続けながら生きました。
疫病神、ガラクタの神、等々罵られながら。
それでもなお、『万人を救いたい』との夢は一貫して持ち続けています。
ですが、もう必ず出来るとは思っていませんし、
また言葉にした事を恥じてもいました。
それなのに花将軍(半月国)だった時も、芳心国師(鎏金宴)だった時も、
第三の道を選んでいます。
たとえもう一杯水を与えたとしても、満足しないかもしれない。
それも承知の上で、です。
なぜ第三の道を選び続けるのか
最終的に『万人を救いたい』この夢にどのような決着をつけるのか。
私が知りたかった答えはある時慕情を助けようとしてさらりと言った
これなんだと思います。
実際に万人を救えるかどうか、は問題じゃないということです。
ただ自分がそうしたいだけで、しなければ後悔するから、なのです。
それが本当に正しい事なのかどうか、
上手くいくのかどうか、
誰に何を言われようと、どう思われようと、
それらは全て問題じゃない。
ただただ、その信念を貫くだけなんです。
花城強固に我が道をいく
祭典の時に謝燐が救った子ども紅紅児(花城)を見て、国師は言いました。
『この子は破滅を招く天煞孤星の命格のもとに生まれていて、関わる者を死なせ、別れさせ、不幸にする。18歳まで生きられない』
そんな最悪の運命は花城自身で努力して変えたのではないでしょうか。
確かに死んではしまいましたが、鬼として生き続けています。
賭け事の運の良さに秘訣があるのか問う謝憐に
花城は運気を手に入れ、サイコロはいつでも六の目(勝ち目)を出します。
しかしある時縮地千里を開くためサイコロを振ると、1の目が出ました。
他者の判断基準などに捉われません。
こちらは過去事情あって別れてしまった男女について語り合うシーンです。
環境が許さないとか、お金がないとか、誰かのためとか
なんらかの理由があって自分のやりたい事をあきらめなければならなかったとしても、あきらめるという決断は自分がした事であり、自分にしか出来ません。
他者や環境、運命のせいではないという事です。
運命は自分で切り開くもの。
歩く道は自分で決めるもの。
想像をはるかに超える困難を乗り越えてきた花城だからこそ
『何事にも動じない力強さ』で歩めるのですね。
『 生きるとは一体何の為なのか 』
謝燐の生き方『万人を救いたい』は、決して人の為に生きなければならないとか、太子殿下だからとか神だから ではなく、あくまで謝燐自身がそうしたいだけです。
でなければ、子どもを救って祭典を台無しにした事への贖罪を求められた時に、『自分は正しい選択をした。だから懺悔はしないし、それを罪に問うなら天の方が間違っている』とは言わないはずです。
花城も、謝燐に『私を生きていく理由にすればいい』と言われたから、ではないはずです。でなければ、謝燐を『愛する人』とは言わないですし、『肩を並べて歩みたい』にはならないと思います。
謝燐に言われたことで、そういう生き方もある、と気付かされただけだと思うのです。
では生きるとは一体何のためなのか。
ただ単純に幸せを感じるため、ではないでしょうか。
人の役に立つとか
何かを成し遂げるとか
誰かに必要とされるとか
使命とか天命とか
それらは生を受けた理由などではなくて
要はそれらをする事が自分にとって幸せかどうか、なのだと。
じゃあ自分だけ幸せになれればいいのか。
自分だけが幸せになったところで本当に幸せなのかどうかは
本当の自分の気持ちに聞いてみればいいだけです。
謝燐も花城も自らの意志であり、それを心底やりたいと思う = 幸せなんです。
だから人からどう見られようが、なんと言われようが関係ないし、見返りも結果も求めていません。
二人の生き方に対し、自分の意に反した生き方をしてしまったのがラスボスです。
『望むものは全て手の届くところにある』のに、彼は何がしたかったのでしょうか。
きっと心の底では自分のやってきた事は間違っていると解ってはいますが、それを認めることが出来ず、誰かに肯定して貰うことでこれまでの生き方を貫きたかったのだと思います。
また戚容(青鬼)も誰かに認められることを渇望するだけの人生でした。
鬼花嫁事件の宣姫に向かって、裴茗も言いました。
『私は君がそうなってしまった原因の一つではあるだろう。だが、君自身で決めた事が主な原因だ。君だけが自分を変えられるんだ。私を愛するな。自分自身を愛せ』
謝燐や花城のように自分軸で生きていきたい。
自分自身を信じ愛せる生き方で、悔いのない人生にしたい。
改めて強く思いました。